2011-03-18

宮城で地震にあいました その4

 東京まで行ってくれるタクシードライバー&5人が乗れるジャンボタクシーを探しに行っている交渉隊の帰りを避難所で待つ。街中のガソリンスタンドが閉鎖している中そのようなタクシーがあるかわからないけれど、結局白石じゃ給油できないから県外に出た方がいい、ということになるかもしれない、などと勝手に期待する。

 待っていると、公民館のスタッフの方が、フロアの掃除をしたいのでどなたか手伝ってくれませんかと声をかけてきたので、率先して手伝う。ヨソから来てお世話になりっぱなしだったので、微々たることですが仕事ができて多少気が楽になる(動ける避難民に仕事を与える、というのは、避難所マネジメントのポイントの一つかも知れませんね)。

 眠気をこらえつつ交渉隊の帰りを待つ。天気がよかったことや、近隣の被害がそこまで大きくなかったことにより、避難所はわりとのどかな空気。交渉隊は OK だった場合は TAXI で現れるだろうから、車が来たらすぐ身支度をしないと、と準備する。

 と、交渉隊が歩いて戻ってくる。やっぱダメか……、と思うと、腕で大きく○のサイン。しばらくのちにジャンボタクシーが届くらしい。おお、やった、東京だ! と急いで荷物をまとめに行く。

 公民館の人に東京に戻る旨を伝える。なんだか共に苦労した人たちを置いていくような心苦しさがあり、またボランティアとして残る選択肢もあったのかもしれないけれども、我々が残っても貴重な食料や毛布を使ってしまうだけなので、帰京することにする。

 出発は午後4時。タクシーで電車が動いているらしい大宮まで行って、そこから電車で帰ることにする。車窓からはガラスが割れたビル、全壊した家、瓦が崩れた屋根など、避難所では分からなかった被害の様子が伝わってくる。停電も続いており、日が暮れると周りは真っ暗になる。

 高速は緊急車両専用になっているようで、国道4号線をひたすら南下する。道は意外とすいていたが、反対の北向きは救援物資を運んでいるのかトラックで大渋滞。早急に必要なものが必要なところへ届くことを祈る。

 車が福島県に入ると、街に明かりがついている。建物が崩れているところもあまり見なくなり、人々が比較的普通に生活している様子が見て取れる。その後のことを考えると、このタイミングで帰ることができたのは本当にラッキーだったのかもしれない。

 途中コンビニで休憩する。電気がついているお店に入るのがとても久しぶりに感じる。トイレで水が流れることに感動して、思わず蛇口で顔まで洗ってしまう。

 さらにその後も結構時間がかかり、結局大宮についたのが夜の0時。タクシー代は12万弱(意外と安い?)。運転手さんもこれからまた白石に戻るということで、本当にお疲れ様である。帰れないからここで泊るわ、という人たちと別れ、京浜東北の終電で赤羽を目指す。すると赤羽で電光掲示を見ると、15時着の上野行きが「大幅遅れ」と表示されている。駅員さんに聞くと、本当に来るとのことなので、ホームで待つ。

 待っていると、1時くらいに本当に電車が来た。10時間遅れってどういうことか。しかも15両くらいの電車で乗客はゼロ。非常にリッチな気分で上野に向かい、そこからまたタクシー。

 結局家についたのは2時ごろ。避難所からざっと10時間。妻と無事の再開を喜びあった後、ほぼ初めて見るテレビニュースの映像にくぎ付けになる。大規模災害発生時の TV 報道って、結局被災地以外向けのものなのだね。

 その後避難所の人たちに大変申し訳ない思いをしながらも温かいお風呂に入り、温かい布団に足を伸ばして寝る。あたりまえと思っていたことは、あまりに簡単にあたりまえじゃなくなるのだ。

 来月4月から大学院で MOT を学び始めるタイミングでこの非常に大きな災害が起こり、しかも偶然被災し、さらに原発も予断を許さない状況が続いている。これからの日本をどうしていくべきなのか、しっかり学んで実践していかないといけない、そういう思いを強く抱いている。


<おわり>

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